past door



 私の懸念は徒労に終わった。
 修二さんが角を曲がるより早く、問題の恭介さんは姿を消していた。どうやら私が修二さんの声に反応したと同時に、行動に出たらしい。まったく驚くべき速さだ。
 私はいつの間にか止めていた呼吸を再開させ、そろそろと息をついた。心臓はまだ跳ねまわるように暴れていた。
 それを悟られまいと、私は殊更弾んだ声を上げた。

「用事は済んだんでしょ。なら早く横浜に行かない?」
「やけに積極的だな。あ、わかった。中華街が目当てなんだろ?」

 修二さんが自信たっぷりに訊いてきた。

「いやね、それじゃあ私が食い意地はってるみたいじゃない」

 私がツンッと横を向いて見せると、修二さんは笑ってポケットから車のキーを取り出した。

「ほんとは中華街が目当てなのは、僕の方。学生のとき以来なんだ」

 まるで給食の時間を待ちわびる小学生のような修二さんの声を聞きながら、私は恭介さんが消えた方を見た。
 まだそこには息を潜めた彼が居る気がしてならなかった。




 修二さんが大学生の頃に通い詰めていたという中華料理店はなるほど、驚くほどおいしかった。脂っこすぎず、それでいてコクも旨みも凝縮されたフルコースを食べた私たちは、どこに入ろうかとごった返す人混みの中をどこに行くともなく歩いていた。
 普段ならうんざりする人混みも、はぐれないために手を繋げると思えばそう嫌なものでもなかった。
 辺りにはお土産の中華まんやら何やらがずらりと並び、ほこほことした湯気を立ち上らせていた。

「なあ、まだ時間平気か?」
「ええ、別に大丈夫だけど。なに、どこか行きたいとこあるの?」
「この先に大学時代の友人がやってる店があるんだよ。まあ、潰れてなきゃの話しなんだけど」

 冗談っぽく言っているが、修二さんはどこか楽しそうだった。

「いいわね、それ。でも私も行っていいの? せっかく大学の友達と会うのに」
「なに言ってるんだよ。侑子がいるから行くんだ。僕の婚約者だって紹介したいんだから」

 修二さんは照れたように少し笑ってみせた。照れ隠しなのか、えーっとどこだっけと言って辺りをきょろきょろ見回している。
 そうか、私たち婚約者なのよね。私はサイズの合わない靴を履いているような気持ちで、ふとそう思った。
 途中までは確かについていっていたはずの気持ちが、今はすっかり置いてきぼりをくらい取り残されているようだった。
 それもこれも全て恭介さんのせいだ。


 修二さんに連れられるままに夜の横浜を歩く。中華街を抜け、賑わいと明るさを捨ててきたような静かな場所に出た。
 その店はそこから程なくして見つかった。

 なんとも言えない味わいのあるバーだ。住宅街にぽつんとあるその店は、道に迷った人に一晩貸す宿のような、ほっとする温かみがあった。
 外に漏れだしたオレンジ系の照明が、優しさとムードを醸し出している。
 ドアに掛けられた小さな木製の看板には、「past door」と書かれている。手製と思われるその字は、書き手の人間性が溢れ、素朴でいて老成しているかのような不思議な力強さがあった。

「past door……、過去のドア?」
 私は店の名前を呟いた。
 言葉にした途端、危険を孕んだ誘惑の風が吹きすぎていった気がした。
 過去とは常に秘密を包み隠して、人間の奥底に眠っているのだ。そして人は過去と未来を追い求め続けずにはいられないように作られているのだ。
 未来が謎であるとすれば、過去は秘密だ。
 そのバーのドアには確かに抗いようのない危険な魅力があった。

「あいつらしい名前だ」

 同じく感慨深げに看板を見つめていた修二さんが、ぽつりと言葉を漏らした。
 私の直感は告げていた、このドアは開けてはならないパンドラの箱だと。
 しかし私がそう感じたときには、もうすでに遅かった。
 修二さんはベルのついたドアを引いた。
 トナカイがつけているようなベルが、がらんと鳴り、ボリュームを絞ってかけられたシックな洋楽が客を招き入れるように流れてきた。

「おぉ、誰かと思えば修二じゃないか!」

 カウンターにいた髭を蓄えた男が、懐かしそうな声を上げた。

「よっ、来てやったぞ、ジョン」
「ジョン?」

 修二さんよりもだいぶ年上に見えるその男性は、どう見てもジョンという感じではない。日本人を絵に描いたような平坦な顔立ちに、いまどき珍しいぐらいの黒髪。

「ジョンは大学時代のこいつのニックネームなんだ。本名は、遠山大悟」

 なるほど、それならしっくりくる。

「それでそっちのきれいな女性は、修二のこれか?」

 大悟ことジョンはそう言って、小指を突き立ててみせた。
 その言葉に修二さんは待っていましたとばかりに、私を紹介し始める。
 あまりにも嬉しそうに話す修二さんに、こちらの方が恥ずかしくなってきて、私は喋り続ける彼の合間に言葉を滑り込ませた。

「本当に素敵なお店ですね。アットホームな感じで落ち着きます」
「そうだろっ。ほらみろ、修二。こういう雰囲気は山小屋じゃなくてアットホームって言うんだ。全くおまえには勿体ないくらいセンスの良い人じゃないか」

 店内は本当にセンスの良い取り合わせでシックにまとめられていた。木材を基調とした壁には小さな額縁に入った外国の絵が飾られており、その横にはドライフラワーがつり下げられている。
 カウンターの後ろのグラスの並びには、小さなキャンドルが立てられていた。
 ドアに掛けられているベルと言い、どうやらジョンは顔に似合わず、なかなかのロマンチストのようだ。

「よし、修二の婚約祝いだ。今夜は特別にとっておきのワインをあけてやろう」

 ジョンはそう言うとカウンターの下から、かなり年代物のワインを取り出した。

「持つべきはバーをやってる友人だな。侑子も飲むだろ」
「ええ、もちろんよ」

 他のお客が帰ってしまうとジョンはドアにかかっている札をクローズにして本格的に飲み始め、そこはちょっとしたホームパーティーのようになった。
 ジョンは会ったばかりの私にも気さくに話しかけてくるので、まるで私まで同じ大学に居たような錯覚を覚える。
 ほどよく回ったアルコールも手伝って、私たちの会話は途切れることもなく弾んだ。


 話は近況報告から自然と大学時代の話へと移行していった。

「でな、そんときジョンの恋人がもの凄い形相でこっちを睨んでてさ」
「それはおまえ、おまえが彼女を紹介したいからって無理矢理つれてきたんだろ」

 他愛のない過去の恋愛。今から何年も前のことなのに、私は胸の奥がチクリと痛むのを感じた。
 大学時代にも、私と出会う前にも、修二さんに恋人が居たって全然おかしくない。むしろいない方がよっぽど怖いじゃないか。

「こいつはさ、むかしっから彼女には困らない奴なんだよ。羨ましいことに、隣には常に女がいるんだぞ」
「おいおい、ジョン。誤解を招くようなこと言うなよ。侑子、酔っぱらったこいつの話しを真に受けるなよ。あることないこと言ってるんだから」

 ジョンの突然の襲撃に、修二さんは慌てたように言った。

「そんなに慌てるなんて怪しいわね。まさか今も居たりしないでしょうねぇ?」

 あんまりにも真剣に慌てる修二さんが可笑しくて、私はからかい口調で彼に詰め寄った。


 突然、がらんがらんというベルの大きな音が響いた。
 三人同時にドアに視線を向ける。そこにはスーツに身を包んだ女性が驚いた顔で立っていた。

「修二……?」




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