マリッジ・ブルー



 ふいに恭介さんの言葉が耳によみがえってきた。

 ――特にやりたかった仕事ってわけじゃない。

   私はどうしてこの業界に入ったのだろう? 服を作りたくて、自分の作った服を人に着てもらいたくてデザイナーの道に進むことに決めたのではなかったのか。
 私が危うく自分の世界に入りそうになっていると、先生から解放された同僚の美咲がお財布を片手にやってきた。

「ねえ、そろそろお昼にしない? このままだと食べる時間なくなりそうだし」
「そうしたいのは山々だけど……」

 私が作りかけの服を指さすと、美咲が顔を寄せてきた。

「いいじゃない。食べるものたべないとさ、やる気でないでしょ?」

 そう言っていたずらっぽく笑う美咲は、私と同期だが年齢は二つも下なのだ。いつものことながら、このちゃっかりさが羨ましくなる。

「オーケー。じゃ、ちょっと待って」

 私はデスクの中にしまってあるバッグからお財布を取り出し、ちょっと迷ってから携帯も取り出した。

「あ、なになに。婚約者から電話でもくるの?」
「そ、そういうわけじゃないけど」

 ふーんと言いながらも美咲は全く信じていない目で、ニヤーっと笑った。

「いいよねー、将来が約束されてる侑子は。私なんかさ、二十四にもなってまだフリーよ。このまま仕事ばっかで恋人一人もできないで終わっちゃうんじゃないか、なんて思うと仕事ほっぽりだして、合コンでもお見合いでも行きたくなっちゃうわよ」

 あー、どこかに恋人落ちてないかなと呟きながら美咲は、オフィスの出口に元気よく歩いていく。

 将来が約束、ね。いったい何を基準にして約束ができるというのだろう。婚約者さえいれば、夫さえいれば将来はずっと幸せに続いていくものなのか。いつリストラの対象になるかもわからない、夫が浮気をしないとも限らない、夫婦仲がいつまでもホットでいられるわけはない。それでも将来が約束されていると言えるのだろうか。

「侑子ー? なにしてんの、早く行こうよ」

 信じられないくらいエネルギッシュな空気を纏った美咲が、焦れったそうにこちらを見ていた。


 オフィスの近くのイタリア料理店に入った私たちは、それぞれ好きなものを頼むと、それぞれの思いでため息をついた。

「何であんたまでため息つくの? つきたいのはこっち」

 美咲はそう言って自分を大げさに指さした。

「そのあんたっていうの止めてよ。これでも私の方が年上なんだから」

 私の先輩としての注意を軽く流しながら、美咲は携帯についているストラップをかちゃかちゃと指で弄んだ。
「ねえ、もしかして……修二さんとうまくいってないの?」

 わざとこちらを見ないで訊いてくるところが、なんとも美咲らしい。

「別にそんなことないわよ」
「じゃあ何でため息つくのよ? 幸せすぎて、とか言ったらあんたの、じゃなくて侑子のリゾットまで食べちゃうからね」
「そうじゃなくて、なんていうか……」

 私は言葉をきって考え込んだ。いったい今の何が不満なんだろう。

「焦れったいなー。きっとあれでしょ、結婚を目前にした人が、本当にこの人と結婚しちゃっていいのかしらとか、もしかしたら他にももっといい人がいるんじゃないかしらとかを悶々考えちゃって、結婚が恐くなるってやつ」
「マリッジ・ブルー。……やっぱりそうなのかな」
「そうよ。言っておくけど、修二さんみたいに優しくて、まあ顔は良いとは言えないけど稼ぎもしっかりしてる人なんてそうそういないからね」

 美咲が言い終わるのを待っていたように、頼んだ料理が運ばれてきた。

「そりゃそうよ。だって私が選んだ人なんだから。……でもねー、なんかこう」

 私がまだ話しているというのに、美咲は半分以上聞き流してさっさっとスパゲティをフォークに巻き付けていた。

「ちょっと、美咲。良い根性してるじゃない? 先輩の話を無視して先に食べるなんて」
「だって、侑子の話って結果出てることでしょ」
「結果って?」

 口の周りに付いたミートソースを軽くナプキンで押さえながら、美咲は呆れたようなため息をついた。

「だから、将来を見据えて結婚する覚悟を決めるか、この先二度と結婚出来なくなるかもしれない爆弾を抱えていくか、結局この二つしかないんだから。で、侑子が波瀾万丈な生き方を選べるとは思えないし、修二さんのことだって好きなんでしょ。だったらこのまま結婚しちゃった方がいいに決まってるじゃない!」

 何の迷いもなくそう力説する友人を私は心底羨ましいと思った。これではどっちか先輩なのかわかったもんじゃない。


 それから私たちは黙々と食べることだけに専念した。
 これ以上続けると喧嘩になる可能性があることを、私も美咲も肌で感じ取ったのだ。
 こんな意味もないような将来話で喧嘩をするなんて馬鹿げている。

「あれ、侑子の携帯鳴ってない?」

 ふいに美咲が私のバッグを指さして言った。
 私が慌ててバッグから携帯を取り出すと、美咲はにやにやした笑いを浮かべながら、いってらっしゃいと手を振った。




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