ユーリは自分の意識の中を彷徨っていた。
あのときの――ロイの頼みを聞き届けたときの記憶が、目の前で再生されるように眼前に広がった。
風が木々の間を駆け抜けるように吹いている。いつもは小さくさえずる鳥たちが、産卵の時期を迎えた時のように騒がしくざわめいていた。まるで林全体が叫んでいるようだった。
ユーリは血に塗れたロイの体を抱き起こした。血の気の失せた顔でロイが、ユーリをじっと見つめる。そして微かに呻きながら手を持ち上げるとユーリの頬を、流れ落ちる涙を拭うようにそっと撫でた。
「ユーリ、頼みが……ある、んだ」
そう言うとロイは懐から何かを取り出した。
柄の部分に石がはめ込まれた小さな剣をロイはぐしゃぐしゃの顔で泣いているユーリの手にしっかり握らせた。
「喋っちゃだめ。これ以上喋ったら……」
ユーリがそこで言葉をつまらせる。
「いや、聞いてくれ」
しゃくり上げて泣くユーリに、ロイは最期の力を振り絞って話し始めた。
「ユスリカ島には、はるか昔からとても大切な石が祀られているんだ。石には不思議な力があるらしい。だからそれを守る者が必要だった。僕もその一人だ。そして僕が最後の生き残りだったんだ」
ロイはそこまで言うと、悲しそうに葉で覆われた天を仰いだ。
「だけど、僕はもうその役目を果たせない……。だから、ユーリ。あの石を僕の代わりに取り返してくれ。絶対にあいつらなんかに渡しちゃいけない。あれはこの島になくちゃいけないんだ」
ロイは休むように言葉を切って、目をつぶった。
「ロイ、しっかりしてよぉ……。私が石取り戻すから。だから置いていかないで……」
ユーリの言葉に、ロイはかろうじて聞き取れる声で言った。
「ユーリ、ごめん……」
ロイの閉じた両目から一筋の涙が流れ落ちた。
鳥のざわめきが静寂に変わった。静寂が騒音となってユーリに押し寄せてくる。
ロイの声が頭の中でがんがんと鳴り響き、それは次第に脳を揺さぶるように大きくなっていく。目の奥で火花が散り、耳の奥で波が渦を巻いている。
全てが頂点に達したと同時に、声も火花も波も消え去り、世界が真っ白になった。
ユーリは波の音のする空間を彷徨っていた。
ときどきカモメの甲高い声が耳元をかすめていく他は、静かなものだった。重くのしかかってくる瞼を無理やりこじ開けると、ユーリの周りに色はなく、全てが白に覆われていた。
どちらが上かもわからない世界で、ユーリは必死に手足を動かした。
まるでミルクの海を泳ぐように体は自然と前へと進む。
「これは夢なの……?」
ユーリの小さな呟きに呼応するかのように、どこかから青い光が漏れ始めた。
光の元はいつの間にかユーリの手にあった例の青い石だった。握りしめた手の合間から、青い光がさんざんと輝き出す。
その瞬間、夢を見ているように情景がぱっと変わった。
真っ白だったはずの空間が、どこかのジャングルへと変わったのだ。熱帯地方を思わせるような密林を誰かの目を借りているような視点で突きすすんでいく。
しだいに日の光が届かない奥深くまで来ると、うねる木に隠されるようにして潜む洞窟が見えてきた。洞窟は鍾乳洞のようになっていて、中がどうなっているのか全く見えない。
頭の中で知らない地図を広げているような不思議な感覚の中で、ユーリは洞窟に近づいてみようとさらに一歩を踏み出そうとした。
が、それは出来なかった。
目の前に広がる光景が、手からこぼれ落ちる砂を掴もうとしているように、さらさらとこぼれ落ちてしまったのだ。
もの凄い勢いで洞窟が逃げるように遠ざかっていく。ユーリは石を握りしめて目を開いた。
「目が覚めたようですね。気分は? うなされていたようですけど」
傍らに居たクレイがユーリの顔を覗き込むように訊いてきた。
ユーリは慌てて、辺りを見回した。ところどころ削れた木製の壁には、見たことのない国の写真が額縁に入れられて飾ってある。その写真以外は殺風景なもので、丸テーブルが一つにクレイの座っている椅子があるだけの小さな部屋だった。
壁に小さく切り取られた穴にガラスをはめ込んだだけの簡単な窓は、半分だけ開いていて、そこからどこか懐かしい潮風が吹き込んでいた。
部屋の中も潮風の匂いでいっぱいだった。
「ここは……?」
「おやおや、覚えてないんですか。君がボロ舟で私たちの船に乗り込んできたんでしょう」
ユーリははじかれたように起きあがった。
脳みそがぐるりと一回転をしたように視界が反転した。ベッドから上半身だけ落ちかけたユーリをクレイが素早い動作で掴んだ。
「危ないなぁ。いきなり起きあがるからですよ。ルードの技は質が悪くてね、少しの間は後遺症みたいに脳が揺れるから、気を付けないと」
「離してっ」
ユーリは咄嗟に腕を振り払った。クレイは、はねのけられて行き場を失った手を苦笑しながら見つめると、怯えたような目で睨んでいるユーリに視線を戻した。
「俺たちが怖い?」
小さな子どもに訊くようにクレイは、ユーリを見つめながら言った。
ユーリは一瞬迷ったように視線を彷徨わせたが、すぐに思い直したようにしっかりとクレイを見据えた。
「そんなことないわ。私にはもう怖いものなんてない。それより私の剣を返してっ」
クレイは無言で椅子から立ち上がると、丸テーブルの上に乗っていた剣を持ってきた。
「大丈夫、装飾品ひとつ取っていませんから」
剣を大切そうに抱きしめたユーリを見て、クレイは茶化すように言った。
ユーリはぷいっと顔を横に背ける。顔立ちが整っているせいで、そういう動作をすると妙に小憎たらしくなる。クレイは苦笑いをすると、呟くように言った。
「……いい趣味ですよ、ほんと」
「なによ?」
「いや、こっちのこと。さてともう平気のようですし、俺は行きますよ。それとデッキでルードがお待ちかね」
クレイは人差し指を立ててデッキの方を指さした。
部屋を出て行くクレイを見ながら、ユーリは漫然とした。のろのろとした動作でベッドから立ち上がろうとすると、骨が軋むような音がした。体の節々が痛い。
「ほんとに質の悪い技……」
ユーリはそれでもなんとか立ちあがると、剣を腰に差して装備品を確かめた。確かに何も昨日と変わっていない。……服以外は。
ユーリは思わず息を飲んだ。自分の身に纏っているものが、ボロから新品のそれへと変わっている。
胸を隠しているのは赤の布一枚。それも巻き付けるようにしているだけなので、胸元はしっかりと見えてしまっている。おなかの部分に服と呼べるものはなく、形の良いへそがむき出しになっていた。下はざっくりとした太もも丈のパンツスタイル。
どこからどう見ても、海賊の服にしか見えない。
ユーリは深々とため息をついた。