狭く薄暗い部屋に映し出される二つの影。窓の外で空がどんよりと雲に覆われていく中、蝋燭の火に照らされて浮かび上がる一対の男女。
お互いの鼻と鼻がこすれあう距離。形の良い唇から漏れる小さな吐息。
唯一の光源となっている一本の蝋燭が艶めかしく揺らぎ、二人を包み隠すように白い埃がちらちらと舞っている。
カビくさい部屋に少女の若々しい香気が、ふんわりと漂っている。それは芽吹いたばかりの春の甘い花を思わせた。
少女の華奢な腕はしっかりと相手に掴まれ、絹のような肌がうっすらと赤くなっていた。華美な装飾が施されたドレスは、壁に押しつけられてしわくちゃになっている。
そこは埃が舞い落ちる音が聞こえそうなくらい静寂の守られた空間だった。
それは唐突だった。
ふいに階段を駆け上がる数人の靴音と金属の擦れ合う音が、階下から地震のように響いてきた。
影の一つが身構えたと同時に、木で出来たドアが蹴破られ静寂は壊された。
「して、マイアート姫よ。こやつの言い分は真っ赤な嘘だというのだな」
穏やかだが威厳のある声が、謁見室に低く響いた。
「ええ、そうよ。この男はあの屋根裏部屋の小窓から突然侵入してきて、あろうことかわたくしの唇を奪ったのですわっ。これは重罪ですわよ、お父様。この下郎を即刻死刑に!」
えらい剣幕で怒鳴り散らすマイアートの横で、赤いビロードを羽織った王は困り顔で唸った。
目の前にいる男は二十歳にも満たない少年である。思い詰めた顔で王を見上げる被告は、まだ少年特有のあどけなさが残っている。純真そうな両目からは、涙がこぼれ落ちそうだ。
そして何より王様を唸らせている一番の原因は、少年がこの城を守る騎士の卵――騎士見習いだったのだ。
「王様、お願いです。どうかお助けください! 僕は王様に忠誠を誓っています。間違っても姫様に手を出すはずがありません」
必死の形相で訴える少年は、どう見ても哀れだった。
謁見室の両脇に控えている騎士たちも、心配そうに事の成り行きを見守っている。中には少年を知っている者もおり弁護に回ろうとするのだが、その度にマイアートの厳しい声が飛ぶので、誰も口を開こうとはしなくなってしまった。
「ふうむ……。だがマイアート、この者はわしの目から見てもそのようなことをする雰囲気ではないぞ。それに屋根裏部屋に侵入して何をしようとしていたのかも、どうやって屋根裏部屋まで辿り着いたかもまだわからんのだぞ」
「見かけに騙されてはいけませんわ。騎士見習いなら壁伝いに登って来ることも可能でしょうし、きっと屋根裏部屋から更にわたくしの部屋に来るつもりだったに違いありませんっ」
マイアートはそこでいったん言葉を切ると、呼吸を整えてから重ねた。
「お父様はわたくしよりこの者を信じるというのですか」
「い、いやそうとは言っていないさ」
可愛い娘にこう言われては王も堪らない。しどろもどろと姫の機嫌を取る。
普段どんなに立派な王であろうと、目に入れても痛くない愛娘の前では形無しになってしまうのだ。
「なら早くこの男に裁きをくれてやるべきですわ」
マイアートは鼻息荒く王をせっつく。
この国に限らず嫁入り前の姫君の唇を奪ったとなれば、人殺しと同等の重罪である。
姫の唇にキスすることを許されるのは、伴侶となった男だけだ。
王は眉を寄せて腕を組むと、喉を鳴らすようにもう一度唸った。隣からはマイアートの強い視線が突き刺さるように投げかけられている。
今までにも姫の寝室に忍び込もうとした者や、一方的に恋情を持ってつきまとった者が牢獄にぶち込まれてきた。けれどそれらは皆、城に侵入した狼藉者だったり、どこから来たのかもわからない馬の骨ばかりだった。間違っても王に忠誠を誓った者ではないのだ。
王も自分に忠誠を誓ってくれる者を信じてやりたいし、ましてや死刑などにはしたくない。
だが現場を騎士たちに取り押さえられたとあっては、いくら王でも刑を軽くしてやることはできそうになかった。
この少年がどんなに違うと訴えても、姫が無理やり唇を奪われたと証言しているのだから、それを無視するわけにもいかないのだ。
いつまでたっても煮え切らない王に焦れたのか、マイアートはトドメをさすようにぴしゃりと言い放った。
「では私にこの男と結婚しろとおっしゃるの? 今度お見えになるというシルバート王子ではなく、この見習い騎士風情と」
これには王も慌てた。そんなことになっては国と国の問題になってしまう。
「それは困る。……そうだな、仕方ない」
王はそう言うと意を決したように、そばに仕えている召使いに剣を持ってくるように命じた。
「え……お父様、何を?」
「わし自ら手打ちにしてやろう。それがせめてもの情けだ」
それまでどっしりと構えていたマイアートは、にわかに焦り始めた。椅子の上で落ち着きなくそわそわしたかと思うと、剣を受け取った王に慌てて言った。
「な、なにもここで死刑にしなくてもいいじゃありませんか。由緒ある謁見室が下郎の血で汚れてしまいますわ。それにお父様が人を殺すのなんて見たくありません」
マイアートはそう言って顔を背けた。さもおぞましいというふうに。
王はふむと頷くと、泣き崩れている騎士見習いの少年を見やった。
「では明朝五時に斬首とする。場所は第一処刑場。それまでは牢屋に閉じこめておけ。これで謁見を終わりとする」
騎士たちに引っ捕らえて連れていかれる少年を王は哀れみをたたえた目で、姫は満足そうな目で見送った。
皆が寝静まった真夜中、マイアートは足音を立てないようにそろりそろりと部屋を抜け出した。
だがいくらマイアートが気を付けて忍び足で歩いても、自分の背丈より長いネグリジェの衣擦れの音がしてしまう。
「まったく、これでは思うように歩けぬ」
マイアートは小声でそう呟くと急いで部屋にとって返し、普段は着ることのない簡素なワンピースに着替えた。
マイアートは辺りを念入りに確認しながら下の階へ下の階へと進んだ。
目指すは地下牢だ。罪の種類に関係なく罪人は全て地下牢に入れられる。ただ重罪人ともなれば見張りの一人や二人いるかもしれないが、そんなことをマイアートが知るはずもなかった。
実のところマイアートは地下牢に行ったことがないのだ。小さい頃は出入りを禁じられていたし、大きくなった今でも特に行きたいと思ったことはなかった。
地下牢に降りる階段は石造りの冷たいものだった。空気もどこかひんやりとしていて、寒いくらいだ。
螺旋状の階段を下りるとそこは蝋燭が点在するだけの暗いところだった。片側に牢がずらりと並び、反対側は石の壁がひたすらあるだけで脱走を危惧してか窓一つない。
マイアートが心配していた見張りもどうやら近くにはいないようだ。
鉄格子の中からは何人かの大きないびきが聞こえている。罪人が寝返りをうつとジャラジャラと鎖のような音がした。
マイアートは辺りの不衛生さと鬱々とした感じにぞっとしながら、鉄格子にそっと顔を近づけて牢の中を一つ一つ見ていった。
「ルーディー」
マイアートが小さな声で名前を呼ぶと、一番奥の牢からこれまた小さな声で返事がかえってきた。
「マイアート姫、こっちだ。早くここから出してくれ」
「待っていま行くわ。足下が暗くて……」
何度か壁にぶつかりそうになりながらも、マイアートは少年の入れられた牢の前に辿り着いた。
「なかなか来ないから心配したよ。見張りは大丈夫でしたか?」
「ええ、問題ないわ。見張りの騎士たちは夕食に混ぜておいた眠り薬のおかげでぐっすりよ」
マイアートは喋りながらポケットから鍵の束を取り出すと、蝋燭の下で牢の鍵と照合し始めた。
これでもない、これも違う。ああっ、あった。マイアートは寒さで震える指で鍵穴に小さな鍵を差し込んだ。
カチャリという小気味いい音と一緒に牢の錠が外れた。
「よしいいぞ。あとは城を出るだけだ」
「お父様もこんなところよりもっとマシなところがあるでしょうに」
「それはしょうがないですよ。なんせ僕は姫様の唇を奪った重罪人なんですから。それにしても姫様があんなに演技がうまいとは思いませんでした」
少年騎士――ルーディーは楽しそうに笑った。
「幼き頃からお稽古事は嫌というほどやらされていますもの。あんな演技の一つや二つ、あなたと一緒にこの城を出られるなら何度だってできますわ。さすがにお父様が剣を持ち出したときには焦りましたけど」
ルーディーはマイアートの手を優しく掴むと、牢屋を通り抜け石の階段を上った。
マイアートたちは城の裏手、使用人たちの通用門となっている小さな木戸から城を出た。
ここから先はひたすらに城門を目指して歩くだけだ。城下町を通り抜けられれば、もうあとはマイアートの知らない世界が待っている。
国と民を思って娘の人生を犠牲にする王が悪いのか、自分の人生をまっとうしようとしたマイアートが悪いのか、はたまた姫を愛してしまったルーディーが悪いのか、それは誰にもわからないことだ。
寝静まっている城下町は、昼間の賑わいをどこに隠し込んだのかというほど静粛だった。
マイアートと前を歩くルーディーの足音だけが、月の光に飲み込まれていく。
「……夢みたいだわ。これで私はもう自由なのね。結婚相手を勝手に決められることなく、お父様の政治の道具にされることもなく、あなたと一緒に外の世界で生きていく」
「一か八かの賭けだったんですけどね。僕たちが一緒になるにはこれしか方法がないから。……まあ僕は姫様を盗んだ反逆見習い騎士ってところかな」
「ふふん、騎士の誓いより私を選んでくれて嬉しいわ、ルーディー」
マイアートは顎をつんっと持ち上げて王族らしく誇り高く微笑うと、思い切り背伸びをしてルーディーに褒美を取らせた。
一瞬驚いたルーディーもそれに応える。
唇が軽くふれあう程度のプレッシャーキス。たっぷり十秒間キスしていた二人はどちらからともなく唇を離した。
「ありがたき幸せ。私の忠誠はマイアート姫様に」
二人はしっかりと手を繋ぐと、ほんのりと明るい月の光に照らされて城門を後にした。
凛と佇む月だけが二人の出立を見送っていた。