一つのプロポーズ





 ――この世に根っからの悪人なんていない。
 まったくその通りだと思う。そもそも「悪」というやつは、いつだって「善」と一緒に存在しているのだから。



 例年よりも早い冬の訪れだった。
 まだクリスマスの前だと言うのに、空からは白いものがちらちらと舞い落ち始めていた。
 俺はコートの襟を立てマフラーをしっかり巻き直すと、雪のように白いマンションをそっと見上げた。
 三階の角部屋はまだ暗かった。
 寒いのを覚悟して袖をまくり腕時計を見ると、時計の針は九時半をまわっていた。
「そろそろ帰ってきてもいい時間なのにな」
 辺りに誰もいないことを良いことに、俺は独り言を呟いた。
 もともと閑静な住宅街が、雪のおかげでさらに静けさを増していた。雪の舞い散る音が聞こえるのではないかと俺が耳を澄ましたところで、曲がり角の向こうからヒールの音が聞こえてきた。
 人の歩き方というのはかなり個性があるもので、俺はもうすっかり彼女の足音を聞き分けられるようになっていた。

 俺は所定の位置となっている物陰に隠れ、彼女の登場を待った。
 間もなくして彼女がいつものように現れ、何の疑いもなく暗証番号で守られたマンションの中に入っていった。
 俺は少し距離を置いてから、幾度となく押した暗証番号を押した。マンションの住人か否か、判断の出来ない間抜けな扉は素直に俺を通してくれた。
 底冷えするようなエントランスホールで彼女が寒そうにエレベーターを待っているのを横目で見やりつつ、俺は非常階段に向かって歩き出した。
 一瞬だけ彼女がこちらを見た気がするが、暗証番号で管理されているこのマンションをよほど信頼しているのか、特に気にしたふうもなくまた視線をエレベーターへと戻した。
 たったそれだけのことなのに、俺は震えがくるほどぞくぞくしていた。

 日本人離れしている造形のはっきりした顔立ちに、意思の強そうな眉。うっすらと塗られたルージュはまだ何にも穢されていない清廉そのものであり、また何ともエロティックだった。ボディラインもモデルのように整い、少しとんがり気味の胸から艶めかしい曲線を描いてくびれていくウエスト。
 あと少しで彼女が俺のものになるかと思うと、たまらなく興奮した。階段を駆け上がる足取りも次第にスピードを上げ、俺は一気に三階の彼女の部屋の前まで来た。
 彼女はまだエレベーターの中だろう。
 部屋に入った彼女は見知らぬ男が居ることにどんな反応を示すだろう。
「驚くだろうな、きっと。いや喜ぶかもしれない。帰りを待っていてくれる人が居るというのは嬉しいものだ」
 口の端から自然と笑いが零れた。密かに声を出して笑いながら、俺は用意しておいたスペアキーで彼女の部屋を開けた。

 中は真っ暗だった。女性の部屋独特の香気のようなものが漂っている。
 俺はきれいに整頓された玄関で靴を脱ぐと、ちゃんと自分の靴を揃えておいた。
 部屋の電気はつけないでおく。彼女が怖がってしまうかもしれない。俺は暗い部屋の中を手探りで進みながら、リビングに辿り着いた。
 俺の想像通り、彼女はかなりきれい好きのようだ。フローリングに置きっぱなしの物と言えば、丁寧に積み上げられたDVDだけだ。
「そうだ、これを彼女と一緒に見るのもいいかもしれない。……残念ながらスプラッタではないようだが、これでも十分楽しめる」
 俺はDVDの隣、ちょうどリビングの真ん中に正座をすると彼女の帰りを暗闇の中で待った。

「さあ、早く帰っておいで。俺の夏樹」
 俺の呼びかけに答えるように彼女が鍵を開ける音が響き、次いでドアが開かれた。
 しっかり者の夏樹はきちんと施錠をしてから靴を脱いで、電気を点けた。俺の姿はまだ見えないようで、夏樹はリラックスした様子でリビングへと近づき、凍り付いた。
 まるで愛を確かめ合う恋人同士のように、俺と夏樹は見つめ合った。夏樹は時が止まってしまったかのようにその場で立ち尽くしている。
「おかえり、夏樹。疲れただろう?」
 俺がそう言った瞬間、彼女は行動を移した。
 弾かれたように身を翻して玄関に向かって突進していく。しかし俺は男だ。いともたやすく夏樹に追いつき、鍵を開けようとしていた彼女の腕を掴むと優しく引っ張った。
 夏樹は狂ったように暴れ、俺の腕をふりほどこうとしたが俺は男だ。腕をぐるりと夏樹の脇の下に回し、不本意だが羽交い締めにすると彼女は途端に大人しくなった。
「お、お願い……殺さないで。お金が、欲しいなら、ぜ、全部あげる。だから」
「待てよ、夏樹。どうして俺がおまえを殺す? 金なんかいらないさ。金なら腐るほどある。俺が欲しいのは夏樹だけだ。これからはずうっと一緒にいられるんだ。朝も昼も、夜も」
 夏樹の顔は化粧が崩れ、マスカラが流れて目の下が真っ黒になっていた。まるで虐待された動物のように怯えた目で俺を見ながら、後から後から涙をこぼしている。

「ほら、夏樹。せっかくの顔が台無しじゃないか」
 俺はそう言うとそばに置いてあったティッシュを何枚か引き抜くと、夏樹の顔を拭ってやろうとした。
 彼女は飛び上がるようにびくっとした。
「で、できるわ。自分でやる」
 俺はティッシュを夏樹に手渡すと、キッチンに立った。コーヒーでも飲めば夏樹も気が鎮まるだろう。
 お湯を火にかける間、痛いほど夏樹の視線が背中に刺さった。
「……あなた、ストーカーなの?」
 夏樹の押し殺したような声に、俺はくるりと振り返ると声を立てて笑った。夏樹はまだなんにもわかっちゃいない。
「俺がストーカー? ……なあ夏樹。ストーカーって何だ。あとをつけたらストーカーか、それとも勝手に部屋に入ったらストーカー?」
 夏樹はご丁寧にもティッシュを丸めてゴミ箱に捨てた。スッピンになった彼女をしげしげと眺めながら、俺は続けた。
「違うだろう。俺は夏樹が好きだ。夏樹だって俺が好きだろう? お互いを必要な者同士が一緒に居るのは当然だ、違うか? なあ、なんか間違ってるか?」
 夏樹は恐怖に引きつった顔で首を横に振った。その仕草がなんとも可愛らしくて、俺はコーヒーを煎れながら鼻歌を歌った。

 夏樹は借りてきた猫のように大人しく座っているようだ。見えないけど俺にはわかる。
「好きな女性と一緒に居られるのは幸せだなぁ。なあ、夏樹?」
 上機嫌で振り向いた俺は、信じられない光景を目の当たりにした。
 なんと夏樹は玄関に走り込もうとしたのが俺に見つかると、どこから取り出したのか小さなナイフを震える手で構えていた。
「き、来たらこれで刺すわよっ」
「夏樹……」
 何かが俺の中で弾け飛んだ。一足飛びに夏樹に近づき、闇雲にナイフを振り回している彼女の腕を掴んで捻り挙げた。苦痛に満ちた声が漏れ、ナイフはかつんという音を立てて床に落ちた。

「どぉして大人しくしていられないんだよ、あぁ? 俺は優しくて清純で可愛い夏樹が好きだったんだ。それが、どうだ。ナイフ突きつけて……しかもこれは俺のナイフだよなぁ」
 俺は夏樹の腕を掴んだまま床に落ちたナイフを拾い上げ、彼女の首元にそっと押し当てた。
 夏樹が恐怖に歪んだ顔で俺を見つめる。ヒューヒューという木枯らしのような音が夏樹の喉から聞こえてくる。青ざめていた顔は死相を表すかのように真っ白になっていた。
 あぁ、堪らない。どうして女ってのは死ぬ一歩手前が一番美しいんだ。
「夏樹、最期に良いこと教えてあげるよ。花は寿命が短いからこそ美しいんだ。儚いものこそ本当の芸術なんだ。潔く散ってこそ花だろう」
 大きく見開かれた目がぎょろりと動き、夏樹は言った。
「おまえなんか……くたばっちまえ!」
 それが彼女の最期の言葉だった。言葉が終わるか否かの寸前に俺の手にしたナイフが彼女の柔らかい首に突き刺さり、ゆっくり引き抜くと血しぶきが上がった。
 俺は彼女の鮮血を浴びながら、快感に浸っていた。
「これだから人を好きになることはやめられない」

 夏樹は海に還った。
 俺が彼女を人魚にしてやったのだ。いつだって俺は一度好きになった女性をないがしろにしたことなんてない。たとえ生命反応が消えたとしても十分に愛情を注ぎ、亡骸を車の助手席に乗せて深夜の高速道路を飛ばす。
 デートだ。最初で最後のドライブ。
 そうして海にたどり着き、俺の愛した女性がたくさん眠るこの海に弔ってやるのだ。
「これで夏樹もいなくなってしまった……。また俺は一人か」
 俺は夏樹を飲み込んだ真っ暗な海に向かって呟いた。波の音が俺の呟きをも飲み、幾度となく繰り返した潮の満ち引きを飽きもせずにまたやっている。

「俺は悪い奴か? いいや、違う。俺は人を好きになっているだけだ。愛することは善なんだろ、母さん。小さい頃から何度もそう言ってたよな。『自分の想いを貫きなさい』って。だから母さんも想いを貫いたんだろ。俺よりもあの気色悪いオヤジが良かったんだよな」
 俺は凍りそうなほど冷たい海風に晒されながら、砂浜に大の字に横になった。
 空は満開の星空だった。ミルキーウェイのように夜空いっぱいに星が散りばめられている。空が高いせいか、宇宙を見ている気がする。
「あれは北斗七星……その隣はなんだっけ」
 宇宙に一人漂い、俺は至福の時を味わっていた。肺が痛くなるほど冷たい空気を胸一杯吸い込み、ゆっくり吐き出す。
 遠くから破滅の音が近づいてきたのが聞こえ、俺は終わりを悟った。もうこれで誰かを愛することは永遠にできなくなってしまうのだろう。
 今までにこの手で海に葬った女性の顔が次から次へと現れては、消えていった。

 美的センスのかけらもないそれは、静かな冬の夜を蹴散らすように徐々に大きくなってくる。
 やがて音がすぐそばまでやってきて、俺はやっと体を起こした。
 なぜか向こうに映る赤いテールランプが滲んで見えた。目から頬にかけて線を引いたように、凍てついた風がしみるほど寒く感じられる。
 俺は車から降りてきた男たちが近づいてくるまでの間ただひたすら、温かくて、けれど氷のように冷たいものを流し続けた。





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