溢れた心




 ユーリは手と足をばたつかせて必死に水を掻いていた。
 泳ぎは大の得意だ。が、船の進む力に海が巻き込まれ、一瞬でも力を抜くと船のスクリューに飲まれてしまいそうになる。あんなものに引き込まれたが最後、あっという間に海の藻屑になってしまう。
 以前にロイが形容した、人魚のようにユーリは一心に船から離れようと泳いだ。
 けれどこの辺りの海の中は複雑な潮の流れになっているらしく、右回りの渦と左回りの渦がユーリを取り囲んでいた。雑巾のように捻られ、体がねじ切れそうだ。その上どんどん息が苦しくなってくる。

 そのとき潮の流れが唐突に向きを変えた。
 その反動で肺に溜めていた空気が一気に吐き出される。まずい! ユーリがそう思ったときにはすでに遅く、鼻と口から大量の水が流れ込んできた。目の前が明滅し、肺が破裂しそうな痛みに悲鳴をあげる。そのまま海の底のような真っ暗な闇に引き込まれていく気がして、ユーリは無我夢中で足掻いた。
 と、いきなりもの凄い勢いで引っ張られた。腕がちぎれる、ユーリは薄れゆく意識の中でそう思った。
 ユーリを引っ張る者――ルードは渾身の力を込めて上昇を試みた。二人の体が少しずつだが、海面に近づいていく。

 意識を失った人間の体が重いとはいえ、ここは水の中。ユーリの体は驚くほど軽かった。ルードは片手でユーリの腰に手を回して、空いているもう一方の手で水を掻いた。男の、それも海を生業としているルードには、船のそばだろうとなんだろうと泳ぐことは造作もないことだ。
 だが平和な海に慣れていたユーリは、スクリューの回っている船のそばを泳ぐなんて初めてのことだったのだ。
 ルードは腕に抱えたユーリを見た。意識を失っているので自然とルードによりかかるように、水の流れに沿ってふわふわしている。整った鼻梁。瞬きの邪魔になりそうなくらい長いまつげ。緩く開いているぷっくりとした挑発的な唇。
 ルードの瞳には、ユーリが妙に扇情的に映った。

 ルードたちがあと少しで海面に顔を出すというところで、上から縄がするすると降りてきた。ルードはすぐに縄を掴んだ。一気に上に引き上げられ、二人は海面に顔を出した。
 大きく息をつくルード。隣のユーリは水を飲んだらしく息をしていなかった。
「おい、おめぇら。先にこいつを引き上げてくれ」
 ルードが命令するとクルーたちがユーリの体を預かった。上を見上げると、クレイがあきれたと言わんばかりのシニカルな笑みを浮かべてルードを見ていた。
 ルードは思わずそれに苦笑で返した。




 昼間の太陽は驚くほど日差しが強い。船の上では海に反射しているから尚更だ。腕がチリチリと灼けていくような気がする。
 ユーリは上下する船に身を任せながら、遠くの方を見ていた。
 見えるのは空と海だけ。あまりにも色が似すぎて、海と空の境界線がわからなくなりそうだった。
 一つ小さく息を吐くと、ユーリは顔をしかめた。喉が焼け付くように痛い。まるで内側から粘膜を引き剥がされているみたいだ。
 ユーリはひりひりと痛む喉をそっと押さえた。


 あの時――まさかルードが自分を助けに飛び込むとは思わなかった。死ぬつもりなどなかったが、無事で済まないことだけは覚悟していたのに。
「これでおまえは俺に一つ借りができたってわけだ」
 ユーリが目を覚ましたときに聞いた第一声は、ルードのこの言葉だった。
 まだ少しぼやける焦点を何とかルードの顔で結ぶ。そこには満足げな顔をしたルードが、ユーリを見下ろしていた。隣ではクレイが感情の読めない顔で立っている。
 ユーリはその瞬間、悟った。雨が頭上から降ってくるように自然に。
 今の私ではこいつらから逃げられない、のだと。
 悔しさのあまり泣きそうになるのを、血が出るほど唇を強く噛んでこらえる。
「……わかった」
 消え入りそうなくらい小さな声だったが、ルードたちには聞こえたようだ。よぉし、などと言って手を叩いている。
 うつむいて拳を握りしめているユーリの姿を見かねたのか、クレイがルードをたしなめつつ、ユーリに言った。
「部屋に案内しましょう。期待しないほうがいいですけどね」


 一度はクレイに従って部屋に連れて行ってもらったものの、とてもじゃないが、じっとしていられるような空間ではなかった。
 ずっと閉めきっていた部屋独特の変な匂いがするし、物を少し動かしただけでも埃が舞う。
 ユーリは固くなっていた窓を開け放つと、早々に部屋から退散してきたのだ。

 今は何時なのだろう。
 ユスリカ島を飛び出してきたのは昨日のことなのに、もう何年も前のような気がする。太陽はユーリの斜め上に位置している。太陽の位置からするとまだ三時前なのかもしれない。
 ユーリは風になびく髪を片手で押さえると、また一つため息をついた。
「どうして自分はこんなとこにいるんだろう、そんなところでしょうか?」
 突然背後から声が聞こえて、ユーリは危うくまた海に落っこちそうになった。
「悪趣味な人ね。気配を絶って背後から近づくなんて」
 ユーリは精一杯の悪態をついた。
「そんなに警戒しなくても平気ですよ」
 予想外の優しい物言いに、ユーリは眉を寄せた。
「そこまで俺たちを疑わなくても大丈夫ということです。夕飯に毒を盛ったり、寝込みを襲うなんてことしませんから」
「さあ、どうだか。たとえあなた達はしなくても私がするかもしれないわよ」
 ユーリは探るような目つきで言った。クレイがどうでるか試してみたかったのだ。
「俺は別に構いませんよ。毒を入れられたとしても匂いですぐわかるし、寝込みを襲うなら逆に手玉にとりますから」
「……嫌なヤツ」
「それはどうも」

 生暖かい風が二人の間を通り抜けていった。どちらからともなく話すのをやめた。
 波と風の音だけに耳を澄まし、それ以外の全てを排除する。けれど心のざわめきだけは、消すことができなかった。
 ユーリはどの方向の先にあるのかも分からないユスリカ島を、ロイを、想った。
 石を取り戻しロイの仇を討てば、あの優しい島に帰れる。ユーリの頬を涙が静かに伝っていった。

 クレイはユーリが泣いていることに気づいていた。
 声も立てずに泣いているユーリは、幼い少女のようにも見えたし、一人前の大人の女にも見えた。クレイは微かな戸惑いを感じながらも、何も言わずにただ前を見つめていた。





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